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横浜中華街はタダの観光地じゃない?160年以上続く「物語」なんですよ

おでかけ・観光

結論から言っちゃいますけどね、横浜の中華街を歩いて、「わあ、賑やかだなぁ」「すごいな」で終わらせてしまう人、めちゃくちゃ多いんですよ。でも、それだけじゃ話が全然足りないんです。なんでかというと、この場所の歴史って、ただ単に「中国人が集まったからできた市場」っていうレベルの話じゃないんですよね。

これはね、「外部からの大きな災厄」「文化的な衝突」「生き残りたいという切実な願い」が、開港からの160年あまりにぎゅっと凝縮された、ものすごく人間くさいドラマなんです。だから、もし中華街に行って、「なんか話したくなるような面白いエピソードはないかな?」って思っているなら、今日の僕の話を聞いておくと、視点がガラッと変わると思いますよ。

ちょっと歴史の勉強をする感じじゃなくて、まるで壮大なサスペンス映画を観たみたいな「へぇ!」っていう感覚でついてきてほしいんですよね。さあ、ここからいきますよ。

最初に注目してほしいのは、「場所」と「名前」が変わっていく過程なんですよ

中華街って、今僕らが知っているような姿になったのも、実はすごく新しいんです。これを知らないと、「昔からずっとこうだったんだろうな」なんて思い込んじゃうわけですが、そうじゃないんですよ。

まずこの土地自体が、元々は「横浜新田」っていう埋め立て地でした。そして、一番最初に人が集まってきたのは、1859年という開港直後なんですよね。当時、広東とか上海といった場所から華僑さんたちがやってきて、自分たちの生活圏を築いていったわけです。ちなみに今も中華街に広東料理のお店が多いのは、最初に来た人たちに広東出身が多かったから、っていう名残なんですよ。

最初はあくまで自然に広がっていったエリアだったんですけどね、この時代は「ここは俺たち(中華系のコミュニティ)が生きる場だ」っていう意識が強かったんです。だから、集まった人たちは関帝廟とか、自分の会館なんかを建てて、「ここに自分たちの生活の核を作るぞ!」って感じで街を築いていったわけです。

ところがですね、この呼び名自体も面白いんですよ。「唐人街」「南京町」なんて呼ばれてた時代から、僕らが今知っている「中華街」という名称が定着したのは、戦後なんです。1955年頃に大通り入口にあのお門(牌楼)=「善隣門」を建てて、「中華街」っていう文字と「親仁善隣」っていう四字を掲げたのが大きなターニングポイントなんですよね。

これを見てどう思うかというと、「なるほど、前から『中華街』って呼ばれてたんじゃん?」と思うかもしれないんですけど、全然そうじゃないんです。この呼び名が定着した背景には、「戦後の復興」「自分たちの場所の再定義」という強いエネルギーがあるわけですね。つまり、あるコミュニティにとって「アイデンティティ(自己認識)」っていうのは、外から与えられるものじゃなくて、内側から何度も積み重ねて作り直していく作業なんですよ

「門」と「神様」は、実は時代の不安や危機を映している鏡なんです

中華街って、東西南北の大きな「四つの門(牌楼)」が立っているのが特徴的ですよね。朝陽門とか朱雀門みたいな、なんかすごい格好いいものが並んでますよね。「これはただ飾りなのか?」と思うかもしれないんですが、ここには深いストーリーがあるんです。

この4つの門を本格的に整備したきっかけは、実は「バブル崩壊」っていう経済的な大きなショックが起きてからなんです。観光客の数が減って、街全体がちょっと苦しくなってきた時期があったんですよね。そこで、「どうやってこの場所を守り抜くか?」「どうやったらまたこの街に人を呼び戻せるか?」という切実な願いを込めて、中国の風水思想に基づいた門を立てたんです。

これを見るとすごく面白い謎があるんですよ。南の門は「朱雀」、北の門は「玄武」って、ちゃんと守護神の名前が冠されているのに、東と西の門には「青龍」とか「白虎」っていう守護神の名前がないんですよね(笑)。諸説あるんですが、西を守る「白虎」という言葉が、かつて起きた悲劇「白虎隊」を連想させるから、あえて「延平門」っていう別の名前にしたんじゃないか、なんていう推測があるわけです。

これって何を示していると思いますか? 「守り神や象徴は、ただ立派なものが良いわけじゃないんですよ。その門を立てる人たちが今何を恐れていて、どこに不安を感じているのかっていう、『時代の心の機微』が反映されているんです」という話なんですよね。

単なる装飾として美しいだけじゃなくて、そこに「この時代だからこそ必要な守り方だ」「これからはこういうエネルギーが必要なんだ」っていう切実なメッセージが入っているわけです。すごい構造じゃないですか?

関帝廟の物語は、「乗り越えること」そのものが信仰になってるんです

そして中華街の中心にあるのが、商売の神様でもある関羽様を祀った「関帝廟」。これが僕が一番「これは面白い!」と思う部分なんですけどね。だって、このお寺(廟)って、普通なら一度大きな災害で壊れたら、建て直すのに途方もない時間もコストもかかるわけじゃないですか。

ところがですよ?この関帝廟、何度焼けても、そのたびに建て直されてきたんです。順番に言うとね、

  • 初代は、1923年の関東大震災で倒壊。
  • 2代目は、1945年6月の空襲(戦災)で焼失。
  • 3代目も、1986年に原因不明の火事で再び燃え落ちてしまう。
  • そして今、僕らが見ているのは、1990年に建て直された4代目なんですよ。

つまり「関帝廟」という場所の歴史って、地震→戦争→原因不明の火事っていう、三度の巨大な災厄を経験して、そのたびに何とかして立ち上がってきた、っていう、とんでもないものなんですよね。

しかもね、この再建の動きがきっかけとなって、中国本土系と台湾系のコミュニティの間で、「ちょっと距離があったけど、一緒に街を守るぞ」っていう和解ムードにつながった、なんて話もあるんですよ。ちなみに、航海や家庭の守り神である媽祖(まそ)を祀る「媽祖廟」のほうは2006年にできた、中華街では意外と新しい廟なんです。

これは僕にとってすごく大事なポイントなんですけど、「信仰や文化的なシンボルって、完璧である必要がないんです。むしろ、『何度も壊れ、そして何とかして立ち上がる』というプロセスそのものが、人々にとって最大の力になってるわけなんですよ」っていうのがわかるんですよね。

単なる神様への畏敬の念だけじゃなくて、「僕ら生き残ったんだ」「また一緒に立て直すぞ」っていう共同体としての意志が、この建物を支えているんです。これってすごい構造ですよね。

まとめ:今日からできる「目の前のものを疑う力」を養いたいんですよ

どうでしょう?最初はただの観光スポットだと思ってた中華街の話が、「コミュニティの自己定義」「時代の不安を映す門」「困難からの再生」っていう、すごく重い物語になってきたじゃないですか。

僕らが今回見てきた事例って、結局どれにも共通している法則があると思うんです。それはね、「目の前のものが『当たり前』だと思っている部分を疑う力」がめちゃくちゃ重要だってことなんですよ。

例えば、「この門はただの飾りだろう」「関帝廟は昔からずっとこうだったんでしょ?」って安易に思っちゃうと、その場所が抱えてきた「本当の物語」や「苦労して積み重ねてきた意味」が見えなくなってしまうわけです。

人生も同じなんですよね。何か大きな成功体験をしたり、綺麗なものを見て感動したとき、「これが当たり前だ」「自分はこれくらいできればいいんだ」って思考停止しがちな部分があると思うんですよ。でもね、本当に視野の広い人っていうのは、その「当たり前すぎて何も考えてない前提」の部分にこそ、本質的なドラマや課題を見つけることができるんです。

だからね、今度あなたが中華街を歩くときは、あの門の一つひとつや、関帝廟の屋根の一枚一枚に、「何度も焼けて、そのたびに立ち上がってきた人たちの物語が詰まってるんだ」って思って眺めてみてください。それだけで、いつものあの賑わいが、急に何倍も面白く見えてくるはずですよ。

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